ディズニーの模倣?奈良ドリームランド誕生秘話

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奈良にはかつて、ディズニーランドを模倣して作られた「奈良ドリームランド」という遊園地がありました。

その誕生秘話は、ディズニーファンならずとも興味をそそる内容です。
このブログ記事では、その背景や魅力、そして最終的に閉園に至るまでの道のりについて詳しくご紹介します。

奈良ドリームランドの誕生

奈良ドリームランドは、1961年7月1日に開業しました。

開業のきっかけは、松尾國三がアメリカのアナハイムにあるディズニーランドに感激し、ウォルト・ディズニーに直接面会することから始まります。
当初、米国ディズニー社は松尾の提案を真剣に受け取っていませんでしたが、彼の再度の訪問によってその熱意に打たれたウォルト・ディズニーは、ノウハウを無償で提供することを決意しました。

ただし、ウォルトが提供したのは単なる遊園地経営のノウハウであり、ディズニーランドそのものを作るためのものではありません。
この時、奈良ドリームランド側は「ディズニーランド」を名乗るために交渉を試みましたが、米国ディズニー社はそれに対し厳しい態度を取りました。

模倣の魅力と問題点

奈良ドリームランドは、ディズニーランドのエッセンスを取り入れつつも、日本独自の遊園地としての色を出そうとしました。
開園当初は「未来の国」「幻想の国」「冒険の国」「過去の国」「メインストリート」の5つのエリアで構成されており、画期的なアトラクションも豊富でした。中でも「潜水艦」「ホバークラフト」「モノレール」といったアトラクションは、当時のテーマパーク界において注目を集めました。

しかし、外観や構成がディズニーランドに酷似していたため、オリジナルと比べて技術的なレベルが劣っていたことが後の大きな障害となりました。
東京ディズニーランドの誘致に関しても、奈良ドリームランドの存在が影を落としたとされています。
加賀見俊夫氏の著書によると、ウォルト・ディズニーが奈良ドリームランドの存在を知って怒り、二度と日本人との仕事をしないと決めたという話も残っています。

閉園までの道のり

奈良ドリームランドは、1970年代には年間150万から160万人を集める人気を博しましたが、その後の娯楽の多様化により次第に業績が低下していきました。
2006年8月31日、経営の厳しさから奈良ドリームランドは閉園してしまいました。
また、近隣の近鉄あやめ池遊園地も2004年に閉鎖され、奈良県内の遊園地は生駒山上遊園地のみとなってしまったのです。

閉園後、跡地は様々な利用が検討されましたが、開発規制や土地権利の問題などで具体的な策は進まず、2016年には遊具の撤去工事が始まりました。
遊具は2019年には全て撤去されましたが、その間も不法侵入者による問題が多発し、地域住民にとっても悩みの種となっていました。

訪れる価値のあった夢の国

現在、奈良ドリームランドは閉園してしまいましたが、その存在は色々な意味で日本のレジャー文化に影響を与えました。
ディズニーファンとしては、奈良ドリームランドのことを知ることが、ディズニーパークの歴史を理解する上で重要な一部分となるでしょう。

主なアトラクションには、メインストリートや各エリアが含まれており、特に家族連れの人気を集めました。
また、終末期にはアトラクションの休止や閉鎖が相次いだものの、過去の栄光を誇る「カプリプール」など、まだまだその名残を感じることができるかもしれません。

まとめとアドバイス

奈良ドリームランドは、ディズニーの影響を受けた日本独自の遊園地として、多くの人々に愛された場所でした。

その誕生から閉園までの秘話を知ることで、遊園地の魅力や成長、そして閉園後の問題まで、さまざまな視点から楽しむことができます。

もし、奈良や日本の遊園地文化についてもっと知りたい方がいれば、過去の文献や資料を探してみることをお勧めします。
特に、ディズニーファンにとって、奈良ドリームランドは他のディズニーパークと同じように、魅力的な歴史を持つスポットなのです。
日本のレジャーカルチャーをもっと深く理解し、楽しむために、このようなテーマに興味を持つのも良いかもしれません。

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